暇だったので、僕はよく夢を見ます。
夢はわりとよく覚えているほうで、
中学生の時から、
夢日記をつけるようになってからは、
特徴的な夢は目覚めても記憶できるようになったり、
夢の中で夢と自覚できる機会が増えてきました。
最近は自覚できる夢を狙って見れる事もたまにあったり、
稀に感覚まですごくリアルな時もあります。
…というのは置いといて。
夢の内容を覚えていることあるんですよね。
そうやって夢をみてると、
いろんなパターンの夢があります。
自分が夢の中の人物になる視点であったり、
自分が空気になって登場人物を客観的に眺める視点であったり。
突拍子もないような夢ならではの超展開であったり、
物語や小説のストーリーを追うような展開であったり。
実に様々なパターンがあります。
その中での、ひとつのパターンなのですが、
恋愛の夢を見ることも結構あります。
もちろん人間の恋物語を描く夢が多くなのだけど、
恋の話にもさらに分類化されていたりします。
そう…人間以外の話。
普通の人間が、生身の人間ならざるものへ向ける”好き”という気持ちを、
描く夢をしばしば見ます。
例えば…
西洋人形であったり、ロボットであったり、幽霊であったり、
楽器であったり、雪女であったり、サボテンであったり…
こういうタイプの夢はほぼ例外なく、
悲哀に満ちた展開になります。
どれだけお互いが好きあってて、愛し合ってても、
片方が人間であるが故、人間ならざるものへの、その想いは、通じることがない。
いや、通じてはいるのだろう。
しかし、社会的に、道徳的に、認知され、許されるものではない。
その越えられる事のない壁に思い悩み、
苦しんで泣いている話がほとんどなの。
大体は苦しむ側の視点になって、夢を見ることが多いですが、
夢の中でも、辛くて、苦しくなるし、涙が出る。
自分自身がその登場人物となることもありますし、
性別からしてまったく違う人物となり、
苦しむその人物の気持ちや感情を共有しながら話を見ていく、
というタイプもあります。
感情を持ったロボットと相思相愛になって、ずっと一緒に居ることを誓うけど、
世間からは後ろ指さされて笑いものにされ続ける夢とか、
ギター抱きしめて泣いてる夢とか、
具体的に内容を書いてみるとすごい滑稽なんですけどね。
夢の中では、本気で好きで、叶うことの無い想いに涙して、辛いんですよ。
あ、ギターの夢は人間の片思いだったと思います。
どういう暗示であるのかは不明ながら、
こういった類の夢を見るたびに、
好きになるのはどういうことなのか。
よく考えます。
そういうのを繰り返してるうちに、
僕は、本当の愛とは何ぞや、と考えるようになりました。
夢でよくみる、人ならざるもの。
それを愛する気持ち。
そこにこそ、真実の愛が宿るのではないか。
でも、人間同士に、愛はあります。
でも人間には種の保存という本能があります。
男女が好きあうのは当然のことです。
つまり基本的に人間は、本能に左右されるだけの、
馬鹿で、愚かな生き物なんです。
平和な現代だと、道徳やモラルに守られて、
本能を理性で縛ってる部分もありますが、
基本的に、生物であるかぎり本能にしたがって動きます。
恋をすること…
それは、愚かで、盲目になること。
それでも、人は何度でも愚かで盲目になろうとする。
自ら、求めるんです。誰もが、ね。
恋をするって、とっても気持ちいいことですからね。
でも僕は、人間が馬鹿で愚かな生き物であることについては、
とても神秘的だと感じますし、そんな人間がとても大好きです。
というか、
本能のまま生きる事が、
愚かであるとか、盲目であるという定義を定めたのは、
現代に生きる人間自身です。
僕は、本能って素敵で綺麗で、すごく自然的な美しさがあると思ってるんですよ。
でも、それを醜い汚いものというイメージを作ったのは、他でもない人間そのものです。
常識と道徳とモラルを、長い歴史の中で定めてしまったからね。
本能それ自体が醜悪なものだと教育されてきましたから。
そう、人間である限り、
男女同士が、お互いを好きになるという気持ちには、
本能が求める欲を満たすという、見返りがあります。
しかし、人間ならざらるもの場合、どうでしょうか。
見返りが生まれるでしょうか?
何か得しましょうか?
…僕が思うに、
なにも見返りが生まれない。発生しない。
決して、何も得られなくとも、それでも、
何かを好きになる気持ち。
愛する気持ち。
守ってあげたいという気持ち。
一緒に在りたいという気持ち。
純粋に、幸せで居てほしいという気持ち。
こういった、何も求めない、見返りが生まれない、
それでも強く想う事こそ、
生物であることの本能すら一切排除し、超越した、
本当の意味での”愛”だと、考えます。
もちろん、人間同士であっても、
こういった気持ちは生まれると思います。
でも、人間の、男女という時点で、
それ以外にも本能という部分が、必ず含まれてます。
そう…ですね。
僕が述べた、本当の意味での”愛”ってのは、
”親愛”というものに近いものかもしれません。
親が、自分の子供に幸せであってほしいという気持ち。
どんな時でも、親だけは必ず子供の味方になってくれること。
ただただ、子供に元気で居てくれる事を願うこと。
毎日手入れをして、水をあげて、植物を育てること。
ただただ、元気に成長してくれるのを願って、
何も喋らない植物を、何もしてくれない植物を、
愛情かけて大切に育てること。
こういう気持ちこそ、
本当の意味での”愛”って言うんじゃないでしょうか。
親→子の感情については、ぶっちゃけ本能なんですけど。
見返りを求めない愛ってことで例として出してみました。
もしも人間同士の駆け引きだけを恋愛というのなら、
僕が考えていることは、恋でも愛でも、
なんでもないのでしょうね。
…それとも、本能から来る気持ちや感情も全部含めて、
”愛”と呼んでるのかな。
本能も全部ひっくるめて愛、っていうか、
愛そのものが本能っていう。
そういう場合は、
”どうこうすればそれは本当の愛”だとか、
”こういう条件を満たしてないからそれは愛とは言えない”とか、
定義できるものじゃないですね。
もしかすると、もしかしなくても、
本能に影響されないものは、愛とは呼ばないのかもしれないし、
呼ぶかもしれない。
…それは、人によって、ってことかな。
ただ単に、人の数だけ、沢山の愛がある、というだけで。
ちょっと頭の中の整理と、
分類をしたくて書き始めてたんですけど、
考えれば考えるほど答えの出ないものです。
余計に混乱しました。
うん。人間って面白い。
でも。
人間の深層心理。
とっても、興味深い。
宗教でもオカルトでもどっちも興味ないけど、
人間の気持ち。心。脳で何考えてるのかとか、
すごく神秘的で面白い。
特に、”好き”になるという気持ちは、
一番深いテーマだと思うんですよ。
僕は僕なりに、
考えて、追いかけていこうと思う。
常識という、人間という縛りがあること。
これがカギだと考えてます。
僕が思うに、人間はもっともっと複雑で不思議で、
いろんな可能性あると思ってます。
とあるなんちゃらじゃないですけど、
”パーソナルリアリティ=自分だけの現実=思い込み=超能力 ”
は、誰にでもあるし、みんな持ってると思ってますよ。
ビリビリとかテレポートとかの物理干渉じゃなくて、
精神に干渉するカンジのねw
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